【感想】JOKER

どうとでも取れる描写を多用して、視聴者に深読みさせるという技法はエヴァンゲリオンだけで満足だ。少なくともエヴァの場合には何らかの解があるように感じられるが、このJOKERの場合、本当に解と呼べるようなものが存在するのかすら疑わしい。

昨今のJOKERムーブメント、とりわけ香港を主とした各国のデモ隊に”JOKER”がシンボル的扱いを受けているという旨の記事、こうしたものを目にすると、やはり制作陣の掌の上で踊らされている感が拭えない。

というのも、この映画では「全ては主観」なのだ。ジョーカーにとってピエロの仮装とは「なるべくしてなった自分」という意味しか持たないだろう。でも作中の人々にはそうは映らない。あのピエロは「民衆の怒りの代弁者」であり「搾取者に対する報復者」として映っている。

現実でもそうだ。デモ隊の人々や、JOKERを引き合いに社会問題を語る人、精神疾患者の苦悩を描いた作品だと感じる人……。その全ての主観を、映画JOKERは鏡となって映し出す。これがJOKERに解を見出せない理由だ。

とはいえ、そう言った「どうとでも取れる」という作品を観ておきながら、自分の持った感想を言わずにしておくのはやや卑怯にも感じたので、自分なりの考えをここに記しておこうと思う。

 

まず大前提として、私はこの映画を「おもしろそー!」と思って観に行ったわけではない。大学の友人が大絶賛し、勧められるがままに池袋のグランドシネマサンシャインまで足を運び、出入り口の横の席に一人で座ってJOKERを視聴した。つまり、「そんなに面白いのか?」という気持ちでこの映画を視聴したわけだ。

実際のところ、映画自体はそれほど面白いとは感じなかった。面白いのは、この映画を観た人たちの感想のほうだ。

出入り口横の席を確保したのは人の感想を盗み聞きするためだった。一人で観に来ている手前、感想を語り合うような相手はいない。消去法的に、誰かと観に来たような人たちの話し声だとか、表情だとか、そういった新鮮な空気感を観たくなる。実際最後の一人になるまで僕は館内からは出なかったのだが、想像通りの反応が観れて結構面白かった。

あまり語っている人がいなかったのだ。スマホを見ている人も少ない。みんな、自分の内面と向き合うような、ボーッとした表情で出口まで歩いて行く。とくに一人で来た男性にこの傾向が多かった。普通はスマホで感想を調べたり、Twitterに報告したり、そういったことをするものだと思っていたのだが、そういう動向は見られない。みんな虚ろな顔で出口へと向かう。途中、一人だけ連れの女性にバットマン知識を披露している男がいたが、彼は少しズレているのだろう。その他の傾向としては、あまり面白くなかったと語る女性のペアと、グロかったと語るこれまた女性のペア。女性はやはり共感を求める生き物なのかもしれない。一緒に映画に行って感想を語りあう相手には、案外女性を選んだほうが楽しいのかもしれない。

それはそれとして、こういった経緯があって私はこの映画を「主観を映す鏡」と認識したわけなのだが、ここからはJOKERの内容に関する考察をしていきたいと思う。

 

 

(以下ネタバレ注意)

 

 

結論から言うと、私なりの考察では「あの映画の内容は、全てJOKERの中では真実である」という結論に至った。

 

ここに至るまでに様々な感想を読み漁ったのだが、どうやらあの映画はJOKERの妄想だという説が主流であるらしい。確かに拳銃の装弾数の問題や時計の針、その他コメディアンとしてマレー・フランクリン・ショーへと出演した経緯など、あれが現実であると考えると不自然な点は多い。

そうなると、この物語は全てが全て「アーサー(もしくはジョーカー)の妄想」ということで片付けていいことになるのだろうか。

答えは、恐らくは違う。

ここで現実説と妄想説を対比して語りたい。前者はそのままの説で全部現実に起こったことであるとする説、後者は病院での面談以前の全てがジョーカーの作った物語であるという説だ。

前者を肯定する場合、前にも挙げたいくつかの理由で説得力に欠けてしまう。主にマレー・フランクリン・ショーに至るまでの経緯で辻褄が合わなくなる。場末のコメディアンであるアーサーの映像を無許可で使用し小馬鹿にし、ピエロの仮装で現れたアーサーをそのままの姿で生放送のショーに出すテレビ番組には、どうにも違和感があると言わざるを得ない。

 後者のほうはどうかというと、全てジョーカーの想像した妄想であるという説だ。並行世界なのは知った上で語るが、ダークナイトのジョーカーは嘘の身の上話をするのが好きだった。自分の口が裂けている理由を「父親にやられた」「妻を笑わせたかった」などと創作の話を即興で語るが、JOKERのジョーカーにも似たような性質があるのなら、これも身の上話の一つとして、頭の中のネタ帳に記されたものだとしてもおかしくはない。

しかし、ジョーカーにあそこまで緻密な精神描写が可能かどうかは怪しいところがある。アーサーという精神疾患者を創作し、その精神構造を隅々まで想定出来るほど、ジョーカーは他人の心の機微に敏感なほうだろうか。この説もまた微妙な線だ。

 

こうなるとどこからどこまでが真実で、何と何が嘘なのかが分からない。

よって、嘘と真実をふるいにかけることにした。

 

まず、全編を通して疑いようのない真実だけを書き出していこう。

・アーサーは暴力を扱える

・アーサーは異常者である

・それを自覚している

・アーサーは病院に入っている(入っていた)

・よってアーサーには病気、もしくは障害がある

 

 以上が全ての前提である。それ以外は妄想説や母親の障害など、様々な要因で真相が定かでないものが多いが、中立の立場に立つと収拾が付かなくなるので、基本的には全て事実と仮定した上で考察する。

 

 まず、アーサーの母親が妄想性障害と自己愛性人格障害持ちであることは真であると考えられる。トーマス・ウェインの対応は責任逃れだと考えたアーサーは診察記録を見つけ出し、母親が妄想性障害であると突止める。これに対してアーサーの母親はウェインが権力を用いて記録の改竄を行ったのだと主張する。これまでトーマス・ウェインを頼って「あの人は私たちの味方よ」と言ってきたあの母親が、ウェインの陰謀だと掌を返す。

 また地下鉄事件の報道の際にアーサーの笑いを咎めるが、彼の障害を知っていれば、普通は咎めるようなことはしないだろう。彼の母親が妄想性障害持ちであることが真実となれば、芋ずる式に病院で見た診察記録も真ということになり、アーサーの過去も真となる。

 

 以上より

・アーサーは病院で診察記録を閲覧した

・アーサーの母親は妄想性の障害である

・アーサーの笑顔は後遺症による障害である

・アーサーは養子である

・アーサーは母親を殺害した

・トーマス・ウェインは無関係

 

 の六つが真となる。

 次に地下鉄事件についてだが、報道が行われ世間を賑わせデモまで起きているので状況証拠から真、その中で拳銃の銃弾が多く使われていたことについては、貰った袋の中に予備の弾丸があったか記憶に無いのだが、ここで騒ぐ人も多いので、撃った弾数は偽としておく。

 

・地下鉄殺人は行われた

×拳銃を撃った回数

 

 次にマレー・フランクリン・ショーについてだが、ここで彼の映像が流れたのは偽である。理由は、彼の映像が流されることに関して事前の通告が無かったこと、そうでなくとも誰もそのことについて触れていなかったことに関してだ。もしもアレが真であるのなら、彼の知り合いの誰か一人でもそのことを話題に出すだろう。しかし、そうしたことは起きなかった。

 

×マレー・フランクリン・ショーでアーサーの映像が流れた

 

 マレー・フランクリン・ショーに出ることはこの物語の根幹に関わる部分であり、最後の暴動を起こすためにも必ず必要な場面である。このショーに出演しないとなると市民の讃えているジョーカーは誕生せず、暴動も起きない。メタ的な話、ジョーカー誕生までの物語を謳う本作でジョーカーが生まれないのは偽である。ただし、その”ジョーカー”自体が、どのジョーカーなのかよく分かっていない。本家なのかダークナイトなのか、スースクなのか。だから、市民に讃えられることや暴動が起きることはジョーカー誕生の絶対条件とは言えない。よってジョーカー誕生の物語だから逆説的に暴動が真だとは言い切れないのだ。

 

 真偽不明の要素として

△マレー・フランクリン・ショーに出演した

△市民によってジョーカーがもてはやされ暴動が起きた

 

 ただし、この二つは物語の流れとしては信憑性の高い内容ではある。

今のところマレー・フランクリン・ショーに出演するための証拠は「ジョーカー誕生の物語→ジョーカーによって市民が立ち上がり暴動が起きたという事実→影響力のある番組にジョーカーが出演して有名になった」という、映画のコンセプトからの逆算、もしくは本編の内容に沿った「アーサーの映像が流された」のふたつだが、このどちらも裏付けとしては弱い。

 

であれば、この二つを引き起こすには別の手段を用いたと考えたほうがいいだろう。

たとえば、「地下鉄事件の真犯人として名乗り出ることでショーに出演する」「出演予定の別人を殺害し、代わりとしてショーに乱入する」など、方法自体はいくらでもある。動機だって何だって良い。気にくわないだとか、他に因縁があったとか、富裕層だから殺そうと思っただとか。

 

上に挙げたとおり、この物語には“偽”の部分が多く存在する。それはアーサーの語る「主観」が鍵となっているのだろう。アーサーにとって、覚えているのは結果だけでよかった。そこに至るための細部の過程は摩耗して消えていっても問題ない。

 

銃弾の数も、出演理由も、アーサーの主観では後々補完すればいいだけの話であって、覚えている必要なんて存在しない。トーマスに会うために潜入したときの衣装も、どのように入手したのか説明がない。なぜ銃を渡されたのかも説明が無い。なぜ今のような暮らしをしているのかも、基本的にJOKERの物語は「結果」だけが真実で、「過程」の部分は曖昧だ。まるで人間の記憶のように、この映画の内容は細部が誤魔化されている。

 

結論をもう一度言うと、私の中では「あの映画の内容は、全てJOKERの中では真実である」というものだ。つまり、あれはJOKERの記憶を忠実に映像化したものであって、第三者の視点から映像記録として残したものではない。彼の目に映った”真実”だけがあの映画の全てである。

 

JOKER曰く、全ては“主観“なのだから。